LOGIN朝から宮は異様な熱気に包まれていた。
回廊を行き交う従者たちの足音、磨き上げられた床が反射する光、庭から運び込まれる花の匂い。
すべてが今日という日のために整えられていた。「お嬢様。お支度が整いました」
シェラの声に、私は姿見の前に立った。
深紅のドレスだった。
裾と袖口に金糸の刺繍が施され、動くたびに光を弾く。 首元は詰まり気味で、露出は最小限。 けれど、その分だけ生地そのものの上質さが際立って見えた。「――綺麗ですよ。お嬢様」
シェラが静かに言った。
その声に微かな震えがあった。
「シェラ」
「失礼を。年甲斐もなく」
彼女は目元を拭い、それから、いつもの完璧な侍女の顔に戻った。
「本日のお相手は、大陸中から集まった方々でございます」
シェラは私の背後で髪飾りの位置を直しながら続けた。
「東方三国、南方の海洋諸国、そして――聖教会の代理人も」
軍議から二日が過ぎた。その間にも、南部国境の民兵はさらに数を増していた。ガイル様の報告によれば、既に三千を超えているという。宮の空気は、目に見えて張り詰めていた。侍女たちの足音も心なしか慌ただしく、廊下ですれ違う文官たちの表情にも、以前にはなかった硬さが滲んでいた。私は自室の窓辺で、その報告書を何度も読み返していた。紙の端が、指の熱で、わずかに湿り気を帯びていた。何度読んでも、書かれている数字は変わらない。それでも、私は、その数字の向こうにある何かを、見落としていないか確かめずにはいられなかった。先手を打つべきか。待つべきか。シェラの言葉も、アルヴィス様の言葉も、どちらも間違っていなかった。答えの出ない問いを前に、ただ立ち尽くしているだけでは何も変わらない。ゼルの言葉が耳の奥で蘇った。時間は無限にはない。私はふと気づいた。この膠着を生んでいるものは何だろう。民兵の集結。それは教会の敵意そのものだ。けれど、その敵意をこれほどまでに深めているのは。失踪。暴露。略奪。すべて、ネフィリスの独断が引き金になっている。もし彼が動くたびに教会がこちらを疑い、そのたびに緊張が積み重なっているのだとしたら。彼を止めることは、ただ一人を止めることではない。この、二つに引き裂かれた選択肢そのものを変える可能性がある。私はその考えに思い至った瞬間、はっきりと悟った。見つけられないなら待つしかない。これまで、そう思っていた。けれど本当にそうだろうか。見つけられないのではなく、彼が見つかりたくないだけなら。彼が出てきたくなる状況を、こちらから作ればいい。私は立ち上がった。窓の外、夕暮れの光が庭を橙色に染めていた。雲の輪郭が、燃えるような赤
翌朝、緊急の軍議が招集された。大広間ではなく、地図の広げられた作戦室に限られた顔ぶれが集まっていた。アルヴィス様、私、シェラ、ガイル様、そして軍務を預かる将官が数名。壁に掛けられた大陸地図には、南部国境を示す赤い印が、いくつも書き加えられていた。灯りとりの窓から差し込む朝の光さえ、いつもより硬い印象を室内に与えていた。「南部国境の民兵、その数、さらに増えております」将官の一人が地図の一点を指しながら報告した。「現時点で、およそ二千。武装の質から見て正規の教会軍ではなく、志願兵と思われますが」「二千という数字は」アルヴィス様が問うた。「国境の守備隊だけでは支えきれません。増援が必要かと」シェラが静かに、けれどはっきりと口を開いた。「殿下。増援だけでは後手に回るだけでございます」「シェラ、それは」私が言いかけると、彼女は続けた。「今、動いているのは、あくまで民兵です。正規軍ではございません。今のうちに、こちらから、その集結地を叩けば、被害を最小限に抑えられます」作戦室に緊張が走った。将官たちの視線が、シェラと私の間を、忙しなく行き来した。「先手を、打てと」私が問うと、シェラはまっすぐに私を見た。「はい」「けれど、それでは」「お嬢様」シェラの声に、これまでにない強さがあった。「相手が本格的に攻め込んでからでは遅うございます。今叩けば犠牲は少なく済みます。待てば、それだけ犠牲は増えていきます」「ガイル、お前の見解は」アルヴィス様が問うた。「――シェラ殿に、同意いたします」ガイル様は苦しげに答えた。「軍事的合理性から言えば、先制するのが最も損害の少ない選択です。感情論を挟む余地はございません」私は拳を強く握った。爪が、手のひらに食い込むのが分かった。「わたくしたちが先
ゼルの分析から、三日が過ぎた。その間、新たな事件は起きなかった。まるで嵐の前の静けさのようだった。宮の日常は、表面上、いつもと変わらず流れていた。庭の花は咲き誇り、廊下を行き交う侍女たちの足取りも軽やかだった。私はその沈黙を、不気味に感じていた。何も起きないことが、かえって、次に来るものの大きさを予感させた。夜、眠りにつく前、決まって、あの見えない気配のことを考えてしまう自分がいた。「殿下。教会より、正式な書状が届きました」朝議の場でガイル様が、緊張した面持ちで一通の書状を差し出した。封蝋には聖教会の紋章が、深く鮮やかに刻まれていた。アルヴィス様がそれを開いた。読み進めるにつれて、彼の表情が次第に硬くなっていく。「――何と」「教会は正式に、帝国を非難する立場を取るとのことだ」彼は書状を円卓の上に置いた。「一連の事件を、帝国による組織的な工作と断定している」私は思わず立ち上がった。「わたくしたちは、何もしていません」「分かっている」アルヴィス様の声は静かだったが、その奥に抑えた怒りがあった。「だが教会にとっては証拠など不要だ。都合の良い物語があれば、それで十分なのだろう」「具体的には、どのような」私が問うと、ガイル様が書状の続きを読み上げた。「聖教会は、アーデルハイド王国、南方の複数の国々に対し、帝国との通商を見直すよう正式に要請している。また」彼は一拍置いた。「聖女ミナ様の名において、帝国を『闇に満ちた国』と断ずる神託が下されたと、布告されております」朝議の間に、重い沈黙が落ちた。円卓を囲む閣僚たちの誰もが、言葉を失っているようだった。「神託」私はその言葉を繰り返した。舌の上で転がすように、何度も。それが、あまりに現実味を欠いた言葉に思えたからだった。「ミナが、
翌日、私はゼルを呼び寄せることにした。「見つけられないなら、探し方を変えるしかない」アルヴィス様の提案だった。「ゼルの分析力なら、何か見えるかもしれない」昼過ぎ、ゼルが宮を訪れた。今日は納品の日ではなかったが、事情を伝えると育ての親は快く送り出してくれたという。馬車を降りたときの彼の表情には、いつもの子どもらしい笑顔ではなく、すでに引き締まった何かが宿っていた。「これまでの事件を、すべて見せていただけますか」ゼルは応接の間の卓に着くなり、そう言った。声も姿勢も既に軍師のものだった。私はガイル様がまとめた報告書の束を、彼の前に置いた。失踪者の一覧。ヴァイセン伯爵家の醜聞。物資輸送馬車の一件。すべてを順に並べた。ゼルはそれらを一枚ずつ丁寧に読み進めていった。指先が紙面を辿る速さは、五歳児のものとは思えないほど正確だった。しばらくして、彼は顔を上げた。「魔王様。一つ伺ってもよろしいでしょうか」「何かしら」「この一連の事件で、命を落とした者は」「――ひとりもいないわ」私は答えた。「怪我人も報告されていない。眠らされた者、資産を暴かれた者、物資を奪われた者はいるけれど」「なるほど」ゼルは報告書の一枚を指で示した。「失踪させられた三人は、いずれも聖女ミナ様への監視や、教会内部の情報統制に深く関わっていた者たちです」「監視や、統制」「つまり」ゼルはまっすぐに私を見た。「魔王様の素性、あるいは、教会が魔王様を追い詰めるために使う情報を握っていた可能性のある者たちです」私は息を呑んだ。「ヴァイセン伯爵の不正暴露も同じでございます」ゼルは続けた。「あの家は婚約発表の場で、態度を保留していた家のひとつ。教会側に転ぶ可能性が最も高い家
「シェラ。あの人に、こちらから連絡を取る方法はないの」翌朝、私は真っ先にシェラを訪ねた。「以前、あなたの私室に書状が置かれたでしょう。同じ方法で、こちらから返事を出せないかしら」シェラは少し考えてから、慎重に答えた。「試す価値はございます。ですが、期待はなさらぬよう」私はその日のうちに、丁寧に言葉を選びながら、返信をしたためた。『ネフィリス様へ。あなたの気持ちは嬉しく思います。けれど、あなたのやり方は多くの人を危険に晒しています。どうか一度、話をさせてください』その文を、シェラの私室の、以前書状が置かれていたのと同じ場所に置いた。羊皮紙の端が、机の木目に沿ってわずかに反っているのを、何度も指で押さえ直した。一晩、待った。眠りは浅く、何度も目が覚めた。そのたび、窓の外の暗闇に、誰かの気配を探してしまう自分がいた。*翌朝、文はそのままの場所に、そのままの状態で残っていた。「読まれた形跡すら、ございません」シェラが書状を手に取りながら言った。その声に、隠しきれない落胆があった。「他に、方法は」私が問うと、シェラは首を振った。「あの者は、こちらから接触される可能性を、常に警戒しております。同じ手を、二度は使わないでしょう」私は、机の上の書状を、もう一度手に取った。インクの色は変わらず鮮やかで、それがかえって、届かなかった事実を際立たせているように見えた。書き直すべきだろうか、と考えた。もっと違う言葉があったのではないか。もっと彼──『彼女』かもしれないが──の心に届く、何か別の言い回しが。けれど、考えれば考えるほど、正解が分からなくなっていった。相手の顔も声も知らないまま、言葉だけで気持ちを届けようとすることの難しさを、私は初めて実感していた。*私は諦めなかった。その日の午後、宮の情報網を総動員することにした。
翌朝、ガイル様は自ら現場に赴いた。失踪した会計官の私邸。そして書類がばら撒かれたヴァイセン伯爵邸。二か所を朝から歩き回って調べたという。普段は執務室に籠りきりの彼が、自ら泥のついた靴で歩き回るのは、珍しいことだった。夕刻、宮に戻った彼の顔には、明らかな疲労と、それ以上に隠しきれない困惑があった。「――どうでしたか」私が尋ねると、彼は首を横に振った。「何も。本当に、何も出てまいりません」執務室に、アルヴィス様と私、シェラ、ガイル様が集まっていた。日はすでに傾き、机の上の燭台が、早くも灯されている。卓の上には、ガイル様が持ち帰った報告書が広げられていた。書き込まれた文字の乱れが、彼の疲労を物語っていた。「まず、会計官の私邸ですが」ガイル様は疲れた声で切り出した。「窓の鍵は内側から掛かったままでした。扉も同様です。争った形跡もなく、私物も一切持ち出されていない。まるで、本人が着の身着のまま、煙のように消えたとしか」「使用人は」アルヴィス様が問うた。「三人おりましたが、誰も物音一つ聞いていないと申します。しかも」ガイル様は一拍置いた。「その夜、三人とも深く眠り込んでいたそうです。理由もなく、いつになく」「眠らされていた、ということね」私が言うと、ガイル様は頷いた。「おそらくは。ですが、薬物の痕跡も、魔術的な干渉の痕跡も、何一つ検出できませんでした」「伯爵邸の方は」「そちらも同様です。書庫の鍵は壊されておらず、警備の兵は誰も侵入者を見ていない。それでいて、書類は確実に持ち出され、一夜のうちに、貴族街のあらゆる家の門前に配られていた」彼は報告書を指で叩いた。「配布の範囲は、帝都だけで百軒を超えます。それを、たった一晩で。人の手では、まず不可能です」執務室に、重い沈黙が落ちた。窓の外は、既に夕闇が広がり始めていた。燭台







